シーン5
- 21lastplay
- 2021年2月8日
- 読了時間: 6分
『彼女を守りたい。そう思って俺は、ヒーローになったんだ。強くなるって決めた。絶対に守る、そう約束したのに…俺はいつまでも、弱いままだ。』
そこまで読んで、心臓がキュッと捻り上げられるような、胃がムカムカするような気持ちになり、思わず溜め息をついた。脚本を読むのは、育美の日課だ。誰もいない場所で、独りでこっそりと。それが良かったし、そうしないといけないとも思っていた。誰にも知られたくなくて、誰にも知られてはいけない。それでもやめたいと思ったことはなくて、毎日毎日、人知れずページをめくっていた。
続きを読もうと、使い込んだ脚本に目を落とす。口を開いて、息を吸って、文字を追って。たったそれだけのことが、時によって楽しかったり、苦しかったりするのは不思議だ。そして今は、ちょっとだけ苦しい。台詞が全く頭に入ってこないから、諦めるように脚本を閉じた。
『俺は本当に、ダメなヒーローだ。』
明確に覚えているワンフレーズを、呟くように口にする。自分はダメだし、ヒーローでもないなと、自虐的なことを思って立ち上がった。夕方五時半の鐘が鳴る。そろそろ帰ろうと鞄を手に持った時、後ろから聞こえてきた声に、耳を不意に引っ張られた。
『…ヒーローってのは、強いからなるんじゃない。どんなにボロボロでかっこ悪くたって、誰かを守ろうと、救おうと必死になれる。そのために強くなれる。』
振り返った先にいた七星は、拳を力強く突き出した。
『お前は、ヒーローになれるよ。』
台詞を言い切った七星は、弾むように育美に駆け寄ると、手にしていた脚本を羨ましそうに見る。育美が咄嗟に後ろ手に隠すと、七星は驚いたように目を丸くした。文句でも言いたげに眉が顰められるのを見て、育美は反射的に口を開いた。
「なんで…」
「なんでって、クライマックスのいちばん良いシーンだろ。覚えてるよ。」
立ち竦む育美の横にどかりと座り込んで、七星は何でもないようにそう言った。
「この脚本、知ってる、の?」
「うん。俺がいちばん好きだった演目。星屑の英雄たち、だっけ?」
「そうだよ」と言いかけて、育美は慌てて口を閉じた。一度言葉にしたら、止められる自信がない。『星屑の英雄たち』は、育美もいちばん好きな演目だった。
「…うん。」
適当な言葉が見つからずに、絞り出すように頷いた。そんな育美を見て、七星は少しだけ表情を崩して笑った。
「いいよな。主人公、弱気そうだけど芯があってさ。演技からも、内に秘めた強さが伝わってきた。」
思い出したようにそう話すと、育美は初めて、身を乗り出すようにして七星と向き合った。
「そう!そうなんだよ。演技で感情を抑えるの、難しいと思うんだ。盛り上がってるシーンだと特に。だからここは…」
ぐいと押しつけられた脚本は、付箋や書き込みで原型が分からないほどだった。そのひとつひとつが気になって、七星は食い入るように脚本を見る。そのそわそわした表情を見て、育美はふと我に返った。
「ご、ごめん…」
急に体温が上がって、耳の先まで痒くなるような恥ずかしさに悶えた。喋りすぎた、引かれていないだろうか。何も言わない七星にもう一度謝ろうと口を開く前に、右の脇に挟んでいた脚本がさっと引き抜かれて、瞬く間に盗られてしまった。
「あ、ちょっと…!」
育美が動揺のままに手を伸ばしても、七星は身軽にかわしてしまう。ぱらぱらと脚本をめくる七星は、目に止まった一頁を開いて、少し距離を開けた先に立つ育美に声を飛ばした。
「…じゃあ、質問を変えよう。どうしてお前はヒーローになった?」
七星の大きくてよく通る声が、育美にめがけて飛んでくる。
「無理だ、ダメだと思うなら、最初からこんな危険な使命を背負う必要はなかったはずだ。…どうしてお前は、ヒーローになりたかったんだ。」
あまりにも急な出来事に反応できない育美を見て、七星は少し首を傾げたが、すぐに何かを思い出したかのように駆け寄った。
「…台詞、入ってないのか。」
気遣っているのか、呆れているのか、芝居の時とは打って変わった平坦な口調に、カチッと、やり場のない気持ちのスイッチが入る。怒りとも、不愉快とも違う、名前の付けられない難儀な気持ち。その気持ちを発散するように、育美は差し出された脚本も手に取らずに大きく息を吸って、吐いた。
『…生きて欲しい人がいる。約束したんだ。離れていても、彼女がどんな世界にいたとしても、俺が必ず駆けつける。俺が必ず助けるんだって、そう誓った。でも俺は、その人を守るどころか、自分の命すら自分で守れない。こんな弱い俺じゃ、本物のヒーローになれっこないさ。』
噛み締めるように台詞を紡ぐ。台詞なんて、とうの昔に頭に入れていた。残されたメモも、悪戯描きも、全部覚えている。何を意地になっているんだと、ふと冷静になりそうになった。それでも動き出した身体は止まらずに、呼吸をするように役を演じた。その様子をじっと見ていた七星の頬が、みるみるうちに紅潮する。
「できるじゃん、芝居。」
立ち上がった七星は、役の感情が抜けきれずに揺れる育美の瞳をしっかり捕らえた。渇きを知らなそうな目が、期待や夢がいっぱいに詰まったような光を放つ。その眼差しは、育美を妙にむずむずさせた。
「こんなの、読むだけなら誰だって…」
「読んでるだけじゃない。表情も、台詞の抑揚も、すげーよ。自然なのに、ちゃんと気持ちが伝わってくる。」
七星は、興奮を堪えきれない様子で笑った。
「東條の芝居、俺は好きだよ。」
俄かには信じられない七星の言葉に、育美は茫然とした。まさか、そんなわけがない。そんな言葉がぐるぐると頭の中で渦を巻く。口を開こうにも何を言うべきか分からなくて、育美はまた、逃げるように俯いた。うんともすんとも言わない育美の様子に、七星は困ったように頭を掻いた。
「なんでお前、演劇部入ったの?」
七星がそう問うと、育美は僅かに顔を上げた。
「この台詞と一緒。無理って思うなら、ここには普通いないし、脚本だって、こんなになるまで読み込まないだろ。」
開いた脚本を育美に差し出して、七星は強い口調で育美に詰め寄る。
「芝居、好きなんじゃないの?」
責め立てるような、肯定以外を認めないような七星の問いに、育美はぎゅっと口をつぐんだ。それでも、何か言わなきゃという気持ちはあった。言わなきゃきっと、勘違いされる。否定するのも、肯定しないのもなんだかしっくりこなくて、育美はぷつぷつと、探るように言葉を零した。
「…好き、でもさ、できないことだってたくさんあるよ。」
「そうかな。」
「そうだよ。」
小さく首を捻る七星を見て、育美は愛想笑いを浮かべた。
「俺には無理だ。」
育美がそう言い切ると、七星はむっとしたように眉間に皺を寄せた。すくりと立ち上がると、育美から奪った脚本をぐいと押しつける。
「無理じゃない。」
「無理だよ、だって俺は…」
怒っているような表情が怖くて下を向く育美の肩を、七星は痛いほど強く掴んだ。その衝撃に驚いた育美は、抗議するようにばっと顔を上げる。目があった七星は、真剣な目で育美を見ていた。
「逃げんなよ。芝居を見てれば分かる。お前はどんなに諦めたフリをしたって、芝居に不誠実にはなれないんだ。好きで、大事で、だから独りでも演じてる。そうじゃないのか。」

「俺、芝居が好きだ。ここで芝居を知った。だから俺は、演劇部を守りたい。」
七星は真っ直ぐにそう言って、僅かに頬を緩めた。
「俺たちの夢、きっと同じだ。」
育美の答えを待たずに、七星は「行こうぜ」と手を引いた。その勢いに引き摺られるように、育美も走り出す。俯きがちだった視界が突然開けて、今日の空が気持ちよく晴れていることに気づいた。
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