シーン8
- 21lastplay
- 2021年2月11日
- 読了時間: 6分

「ちゃんと見ててね、ってさ…」
大して好きでもない飴を、常備し始めたのはいつからだろう。気が遠くなるほど昔のことのような気がして、つい気怠くなってしまった。
今でもたまに、いや、毎日、気付いたら思い出している。この場所が夢と希望に満ち溢れていて、みんなが笑顔で、それで、大切な仲間がいた、あの日々のこと。
忘れようと思ったことはない。むしろずっと、自分だけでも憶えていたいと思う。未来の明るい若者と違って、自分はもういい大人だ。過去の甘い想い出に浸って生きたって、もう誰も構わないだろう。そう思っていたのに。
何だろうか。この、腑に落ちない感じ。
強い風が吹いて、寝癖のついた髪が眼鏡に引っかかる。そんなことまでかったるくて、めんどくさくて「あーあ、」と溜め息が声に出た。自分でも驚くほど、ドスの効いた声だった。
「げぇ…あ、やば…」
不意に声が聞こえた。聞き覚えのある気がして振り返ると、そこには朔太郎が立っていた。
お互いに気まずいのか目を逸らして、それでも知らんぷりはできない距離感だったから、夏樹は仕方なく声をかけた。
「え、部活どうしたん?」
「あ〜…いや、別にい?たまには休みたいし…まあ、そんな感じだから!それだけ!」
朔太郎は言い訳をしながら、コンビニの袋を背中に隠そうと必死だった。放課後に部室で食べるお菓子を調達するのは、朔太郎の習慣らしい。あまりにも分かりやすい嘘に、夏樹は思わず噴き出してしまう。
「へえ〜、ふ〜ん、なるほどねえ〜」
「な、なんだよ…ニヤニヤしないでよ。」
じりじりと距離を取って立ち去ろうとする朔太郎に、夏樹は手招きした。警戒心を露骨に顔に出しながら、朔太郎はのろのろと寄ってくる。呼んだからといって特にすることもないから、夏樹はぼんやりと空を見上げていた。
「なに、喧嘩でもしたの?」
夏樹が何気なく聞くと、朔太郎は小さな呻き声をあげる。
「そういうんじゃ、ないけど…」
もごもごと言い淀むから気になって、でも追求する義理もないから、夏樹は「ふーん」と淡白な返事を返す。何か言いたいことでもあるのか、言葉を選んでいるのか、朔太郎は散々溜めてから「なんかさあ」と切り出した。
「俺は別に、楽しければなんでもいいんだよ。少年漫画みたいにさ、大変なこととかスゴいこととか頑張れば、カッコいいかもだけどさ。そうじゃなくても別に、毎日普通に楽しめるじゃん。つーか俺たち別に、特別とかじゃないし。普通でいいだろ、普通で。」
溜まりに溜まった鬱憤を吐き出すように、朔太郎の声は、だんだんと苛立ちの色を見せた。
「育だって絶対、そっちの方が良いに決まってんじゃん。」
最後に自信なさげな「たぶん」を付け足して、朔太郎は不服そうに顔を伏せた。
「育美のことなら誰よりも知ってる」ずっとそう思っていた。幼馴染で、親友で、親が家にいる時間が短い育美にとってはきっと、家族よりも一緒に過ごした時間が長い存在。それが自分だと、どこかで過信していたのかもしれない。
「…芝居だってさ、昔みたいに楽しくできたらいいよ。でも無理じゃん。あんなの全然、苦しいだけでさ…やる意味、ないじゃん。」
朔太郎が育美と芝居を始めたのは、まだランドセルを背負った小学生の時だった。嵐ヶ丘祭で公演を観て、それからはずっと、憧れも夢も、舞台の上にあった。最初はただのごっこ遊びで、でもそれが楽しくて、毎日夢中で自分ではない誰かになりきった。喧嘩したって、クラスが離れたって、どんなに悲しいことがあったって、芝居が朔太郎と育美の間を繋いでくれた。これからもずっと、育美と芝居がしたい。朔太郎だって、昔はそう思っていた。
それでも、潰れかけの嵐ヶ丘演劇部に入部したら、嫌でも知りたくなかった現実を突きつけられた。昔の演劇部と比べられ、笑われ、落胆され、時には罵られることもあった。
二年前に初めて舞台の上に立った時、ぼんやりと見える客席から、ひとり、またひとりと消えていく様子が見えた。その時、あんなに自由だと思っていた舞台の上は、とても不自由な場所であることに気付いたのだ。
「知ってるよ、育が芝居好きなことくらい。俺、ずっと一緒にいたんだもん。でも、だからさ、辛いんじゃん。あの舞台に立ったら、ただ楽しいだけじゃ芝居できないだろ。…逃げ場、ないだろ、舞台の上は。」
「…そうねえ。幕が上がっちゃうとね。」
「でしょ。だからさ俺、安心したんだ。あの時、先生が公演止めてくれて。無理やりだったけどさ、でも、ああするしかなかったじゃん。俺は良かったって思った。…でも育はさあ、後悔してんのかなあ、あの日のこと。」
力なく笑って、朔太郎は空を見た。自分たちは、特別にはなれない。逃げも隠れもできない舞台の上で、それを実感する時ほど、悔しい瞬間はないだろう。芝居が好きなら、なおさらだ。それだけで嫌いになったって、おかしくない。
芝居が好きなことを責めたいわけじゃない。ひとりでこっそり芝居してたっていいし、一緒に芝居するのだって、別に嫌じゃない。ただ、舞台に立つのは別だ。公演をやるということは、そんなに簡単じゃない。突然現れた七星は、きっとそれを分かっていない。でも、育美はどうなのだろうか。
周りの目線や言葉から、育美を守るのに必死だった。それが親友として、自分が育美にできる唯一のことだと思っていた。
思い返してみれば、育美の気持ちを考えたことなんて、一度もなかったかもしれない。でもいつだって、育美のためを思っていた。その気持ちに嘘はない。
「…変わりたくないよ。今までずっと平和だったじゃん。努力友情勝利とかなくてもさ、一緒にいられればそれでいいじゃん。…それじゃ、ダメなのかよ。」
なんだかすっきりしない気持ちを誤魔化すように、朔太郎はうんと身体を伸ばす。雲一つない青空が綺麗で、思わず溜め息をついた。そんな朔太郎を横目で盗み見た夏樹も、言葉を探すように小さく息をつく。
「なーんかさあ、変わるって怖いよね。それが大事にしてたものだと、なおさら。」
夏樹がそう言うと、朔太郎はぎょっと目を丸くした。
「先生もそんなこと考えるんだ。」
朔太郎の驚いた声に、夏樹は少し笑う。
「考えるよ。何で前に進まなきゃいけないんだって。めんどくさいなって、思う。努力友情勝利とか、暑苦しくてまじで無理だし。フィクションならいいけどさ。」
夏樹の言葉に耳を傾けて、朔太郎は「そーね」と曖昧に頷いた。その先に続けることは特に考えてなくて、微妙な沈黙がちょっと気まずい。
少しだけ、エモーショナルな気持ちになっている気がした。無理とか、暑苦しいとか言っておきながら、それでもちょっとだけ、自慢したくなることがある。心の中にあるだけで、ちっぽけな優越感が生まれる、大切な想い出。
恥ずかしくなるほどに夢や希望を語って、毎日毎日、少しでも前に進むことを目指した、最高に暑苦しい日々。忘れたくないし、失いたくない。今だって誇っていたいのに、なんでそれが後ろめたいのだろう。それがあっさり分かっていれば、こんなに悩んでいない。
「でもねえ、変わろうとしてたら、何か変わってたのかなって。当たり前かもしれないんだけど。そう思うこともあるよ。」
夏樹の意味深そうな言葉に、朔太郎は首を傾げた。その短い沈黙を破るように、聞き馴染みのある賑やかな声が、遠くから近づいてきた。
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