シーン19
- 21lastplay
- 2021年2月26日
- 読了時間: 5分
土曜日の昼下がり。その人はいつも、近所の河川敷にいた。
ぼろぼろのノートを片手に、何かをうんと考えて、書いて、また考える。
そんな退屈そうなことを、日が暮れるまで飽きずに繰り返す、そんな人だった。
出会ったのは偶然だった。
図書館でテキトウな本を借りた、帰り道。夕方のチャイムまで、まだまだ時間があることに絶望していた。「友達と遊んで来る」なんて嘘、つかなきゃよかった。そんな後悔したところで、時間が進むわけでもなかった。
借りてきた本は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だった。クラスの人気者が澄まし顔でこの本を持ち歩くようになってから、教室ではたびたび話題に挙がっている。なんでこの本を手に取ったのかは、覚えてない。でも少しは、そのクラスメイトのことを意識していたのかもしれない。
「なあ、その本、少し借りていい?」
そう後ろから声をかけてきたのが、あの人だった。名前は知らない。高校生くらいの、優しそうな顔で笑う人だった。
「これ、面白いの?」
そう聞くと、彼は困ったように首を傾げた。
「どうだろ。面白いかもしれないし、面白くないかもしれない。」
俺があからさまに不服な顔をしたからだろう。彼は耐えられないといった様子で噴き出して「わかった、わかった。一緒に読もうか。」と言った。
彼は本を読むのがうまかった。その声から、表情から、身体から紡がれる芝居は、つまらないだろうと信じきっていた文字の羅列を、世界に変えた。
すごい、楽しい、面白い、すごい、すごい。いろんな思いがこみ上げた。
「俺も、俺も一緒に、読んでいい?」
思わず呟いた俺の言葉に、彼は嬉しそうに頷いた。
それが俺の、芝居との出会いだった。
「思い出したことがあるんだ。」
そう言って七星は、少年が二人並んだ脚本の挿絵をそっとなぞった。涙を流す少年たちの顔は、くしゃりと皺の寄った紙のせいで、ほんの少し歪んでいる。使い古された脚本に、努力の跡が滲んでいるような気がした。
「昔、この街にいた時、俺に芝居を教えてくれた人がいたんだ。ウチは転勤族だからさ、転校ばっかで、友達もあんまいなくて。毎日、本当につまんなかった。」
その時を思い出すように、七星は不服そうな表情を浮かべて空を見上げる。育美はそんな七星の横顔をちらりと見て、何となく、一緒に空を見上げた。雲一つない晴れた夜空には、明るい星が一つだけ浮かんでいる。七星はそれに手を伸ばして、捕まえるように拳を握った。
「でも、その人に出会って俺、変われたんだ。芝居が好きになって、夢中になれるものが見つかった。それだけで人生、嘘みたいに楽しくなった。」
育美が小さく「そっか」と呟くと、七星は大きく頷く。
「俺の憧れなんだ」
照れもせずにそう言って、七星は言葉を続ける。
「その人も、嵐ヶ丘の演劇部でさ。いつだったか、公演を観に来ないかって、誘われたんだ。俺はずっと、あの人と二人でする芝居に満足してたし、それ以上何もいらないって思ってた。でもな、『此処に来れば、芝居の本当の面白さが分かるから』って。そう言われたんだ。」
「本当の、面白さ…」
育美が首を傾げると、七星は少しだけ微笑んだ。
「意味、わかんないよなあ。」
「分かんない、ね…」
「うん。結局何かは分かんなかったんだけどさ。でも俺、芝居がもっと好きになったよ。此処で芝居観て初めて、本気で舞台、立ってみたくなったんだ。俺にはない、何かすっげえもんが、此処にはあるって、そう思った。」
何か、すごいもの。
それは確かに、感じたことがある。自分にはない、すごいもの。それを感じて、だから舞台に憧れた。
「それは分かる、かも。」
育美が曖昧な言葉を返すと、七星はふと育美の顔を見た。
「うん。」
小さな子どものようにコクリと素直に頷いて、七星はまた、脚本に目を落とす。
「羨ましかったんだろうな。」
「羨ましい?」
「うん。あの人が俺といる時よりも、ずっと楽しそうな顔で笑うから。でも、決まってるよな、そんなの。俺なんかと二人でやるより、ずっと一緒にやってきた仲間たちと舞台に立つ方が、きっと、何十倍も…」
その先の言葉が続かなくて、笑った口の形だけが曖昧に残されたまま、七星は困ったように目を逸らした。話したいと思って、だから此処に来たのに、いざ口にするのは惨めで嫌だった。可哀想だなんて、思われたくない。
けれど、それでも伝えたいことがある。そしてそれを伝えられるのは、きっと、今しかない。
先刻の勝吾の言葉が脳裏をよぎって、七星は念を込めるように、拳を強く握った。
「俺も、そんな仲間が欲しいって、思ったんだと思う。」
仲間。七星の口から飛び出した意外な言葉に、育美はふと顔を上げた。
「此処に来れば、何かが変わるって思ってた。此処に来て、芝居をすれば、俺もきっと、あの人みたいになれる。つまらなくて最悪な毎日から抜け出せるんじゃないかって。でも、そうじゃなかったんだな。」
「え?」
「俺は俺で、頑張んなきゃいけないんだ。もっともっと。」
一人で納得したように笑う七星を見て、育美は疑問を零す。そんな育美の戸惑いにはお構いなしで、七星は言葉を続けた。
「俺、頑張るよ。お前たちの仲間になれるように。」
七星の真っ直ぐな目が、育美の瞳を貫く。
不思議と、痛みも恐怖もなかった。
尖った矢のように鋭かった、前までの七星とは違う。青空を駆ける紙飛行機が、すっと胸に届くように。ふわりと軽く、でも確かに、七星の想いが伝わってきた。
「もっと色んなこと話してさ。楽しいことも、嫌なことも知りたい。東條が芝居を楽しめないんだったら、俺はもっともっと、頼れるすげー役者になるよ。何かあっても俺がフォローするし、最高の芝居して、嫌でもワクワクさせてやる。仲間とか友達とか、正直よく分かんないけど…でも俺、何だってするよ。」
二人を照らす街路灯が、ちかちかと揺れる。光の当たる範囲は狭い。触れそうなほど近くにある七星の肩が僅かに強張って、大袈裟に鼓動を打つ心臓の音が、聞こえた気がした。
「東條と、芝居がしたいんだ。」
そう言って七星は、まだ何かを言いたげに口を開くも、決まりが悪そうにぐっと言葉を飲み込んだ。「読み合わせ、するかー」と誤魔化すように身体を伸ばし、脚本をぺらぺらとめくる。
そんな七星のぎこちない芝居を見抜いたかのように、育美は脚本の端をぎゅっと握り、意を決したように口を開いた。
「俺、本当は、知ってるんだ。」
「え?」
七星が驚いたように目を丸くすると、育美は痛みを堪えるように眉を顰めて、言葉を引き摺るように続ける。
「この脚本の、結末。」
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